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 初めてのキスは最悪だった。
 お互い勢い任せで唇を合わせたから、歯がぶつかって痛かったし、血は滲むし、そのくせ離れることも出来なくて息が苦しくなった。永遠にでも思えるような数十秒。ようやく唇を離したときの男の顔を、タケルは今でも思い出せる。いっそ可哀想なほど耳まで赤く染め、眉根を潜めながら今にでも舌打ちしそうだったあの顔。ざまあみろと思った。この傲岸不遜な男は、こんな不恰好なキスひとつでこんなにも余裕がなくなるのかと思うと面白かった。チビ、と掠れた声が呼び、次に手を伸ばしたのがどちらだったのかはもう覚えていない。気づけば二度目のキスをしていて、重ねた手のひらは焼けるほど熱かった。
 もっと余裕をなくせばいいと思った。
 もっと馬鹿になってしまえと思った。
 余裕がないのは、馬鹿だったのは、自分だって同じだったくせに。

 ▽

 男はいつだって神出鬼没だ。例えば早朝。例えば深夜。タケルが仕事から帰ってくると玄関先でどっかりと座り込んでいることもあって、その度に小言をこぼしながら鍵を開けてやるのももう何度繰り返したか分からなかった。
 気まぐれにやってくる男をタケルは拒否することができない。拒否することを諦めたと言った方が正しいか。いくら言ったところで無駄なのだ。どんなに無下に扱っても、冷たい言葉で追い返しても、男はどこ吹く風でタケルの領域に踏み込んでくる。だからもう諦めた。決して受け入れたわけじゃない。許容したわけじゃない。許したわけじゃ、ない。
 そう言い聞かせながら、タケルは今日も家の鍵を開けている。

「おい、チビ」

 背後から呼びかけられてタケルは初めて顔を上げた。見れば男が、漣が当然のように廊下に立っていて、少しだけ息が詰まる自分が居る。
 本当はとっくに気づいていた。あれだけ大きな音を立てて押し入ってくれば嫌でも分かる。それでもこの不躾な男を優しく迎えてやる義理はないと、そう思って声を掛けられるまでずっと無視を続けていた。
 読みかけの台本を置いてわざと大きなため息を吐く。視線を戻しながらなんの用だと返した声は、平坦だった。

「なんの用だろうがオレ様の勝手だろーが。おい、クーラーつけろ。あちーんだよ」
「人の家に勝手に来ておいて勝手なことを言うな」
「シラネー。チビのくせにオレ様に指図すんじゃねェ」

 漣はどかどかと部屋に上がり込み慣れた手つきでリモコンを操作する。ピ、と軽やかな音と共に涼しい風が部屋を満たし、知らず知らずのうちにほっと息を吐いた。漣の言う通り、家の外も中も酷い暑さだった。
 リモコンを投げやった漣がタケルの隣に座り込みひとつあくびをする。来て早々眠りにでもつくのかと思えば、そのままじっと無言で見つめてくるものだからじんわりと手のひらに汗が滲んだ。
 何か言いたいことでもあるのか。漣の癖をタケルは知っている。何か言いたいとき、聞きたいとき。いつもうるさく喚いてくるくせに、そういうとき、漣はこちらを探るように黙って視線を向けてくる。まるで獲物の様子を伺う野生動物だ。遠慮も配慮もないその視線はきっと、こちらの一挙一動を少しも見逃さないだろう。
 今度は小さくため息をこぼす。視界の端に映り込む肩が僅かに揺れたのを見て、もう一度視線を投げた。

「オマエ、言いたいことがあるならはっきり――」
「チビ」

 油断、していた。
 たった二文字の間抜けた呼び名に制されて、ぬっと伸びてきた白い手を咄嗟に拒むことができなかった。片方は肩を。片方は首筋を。逃さないとでも言うように伝わってくる体温とは裏腹に触れる手つきは繊細で、一瞬で胸の内をかき乱される。いつもは呆れるくらい粗暴なくせに、こんなときだけ。くすぐるような指先がまるで大切にされているかのようで、ぐるぐると腹の底が落ち着かない。
 首筋をなぞる細長い指がやがて顎を掬って、視界が月のような金とそれを縁取る銀でいっぱいになった。
 交わしたキスはあの日の面影を失くしている。
 歯なんてぶつからないし、血も滲まないし、覚えた息継ぎで息が苦しくなることもない。
 ちゅ、とかわいらしい音が鳴って、鳥肌が立った。何度も何度も戯れに繰り返されて、その合間に囁くような声色が名前を呼ぶから段々と思考はふやけていく。この先をもう知っている。これ以上の熱のやり取りを、もう何度も重ねている。

「――っ、おい」
「ンだよ」
「あ……、暑いから、いやだ」
「だからクーラーつけてやっただろうが」

 ありがたく思え、と。
 薄々勘づいてはいたが、いざ最初からそのつもりだったと分かるとむかむか腹が立ってきた。コレが目的でやってきたことに対してじゃない。この状況に至るまでの手際の良さが。手慣れた仕草が。胸をざわつかせる自分を差し置いてひとり、なんにも感じていないようで腹が立つ。
 自然な動作でもう一度キスをしてこようとするすました顔を見た瞬間、あの日の情景が鮮明に脳裏に浮かんだ。
 いっそ可哀想なくらい真っ赤な頬に耳。顰め面。何かを堪えるギラついた目。歪んだ唇。
 もっと余裕をなくせばいいと思った。
 もっと馬鹿になってしまえと思った。
 そうして馬鹿みたいに不恰好で滑稽な方が、自分達には合っているような気がしたから。
 刹那、考えるより先に身体の方が動いた。頬に柔らかく添えられた白い手を素早く掴んで引き剥がす。衝動のまま力任せに男の肩を押し返せば、存外呆気なく自分より大きな身体は倒れていった。男が起き上がる前に腰に乗り上げ見下ろすと、白黒させながらこちらを見る瞳がふたつ。どうやら油断していたらしい。先ほどの借りを早速返せた気がして、タケルは気づかれないようにほくそ笑んだ。

「っ、な……にいきなりヤル気になってんだァ? チビ」

 しかし男の方もやられっ放しでいる気はないようだった。瞬時にいつもの挑発的な笑みを浮かべ、喉の奥でくは、と笑う。当然だろう。元々、そういう闘争心で成り立っている関係だ。自分達はいつだって相手に負けるわけにはいかない。いつだって全力で勝ちに行く。こんなことに勝ち負けがあるのかなんて、分からないけれど。
 空いた左手を、ゆっくりと曝け出された鎖骨に滑らせた。首元の緩いタンクトップは乱れていて白い肌と逞しい胸元を隠そうともしていない。ふと、漣の方を見れば、今にも喰ってかかってきそうな鋭い目がタケルの指を追っている。これだ、と思う。あの日と今日が、重なり始めている。
 指を離して、身を屈める。男の真似をするようにわざと優しいキスをして、唇を離す瞬間下唇を食んでやった。

「……っ」
「……」

 お互い無言で見つめ合えば、白い頬がじわじわと真っ赤に染め上げられていく。悔しそうに歪められた口元は何か言いたげに開閉するが、ついぞ言葉を漏らすことはなかった。ずいぶん大袈裟な反応だな、と他人事のように思ったが、そういえば自分からキスをしたのは初めてだったと気がつく。気づいた途端に羞恥心が湧いてきたが、再び男の顔を見ればそんな些細なことは頭から飛んでいった。
 そこにあるのはあの日と寸分違わぬ表情。戦慄く唇に気分が良くて、いつ間にか腹立たしさは消えていた。おかしさから思わず、ふ、と吐息と共に笑みがこぼれる。気分が良いついでに「ばか」と罵れば、無理やり起き上がった男に乱暴に口づけられた。
 ――この方がいい。微睡のような甘ったるい触れ合いは、胸がざわつくくせにあたたかく満たされて、視界がぼやけるから。らしくなくて嫌になる。
 首に手を回し早くしろと催促すると固い床に押し倒された。倒れ込んだ拍子に頭を打ったとかそんなことはどうでもいい。ここは布団じゃなくて床の上だとか、そんなこともどうだっていい。
 垂れ下がる銀髪の間に獣のような瞳が見え隠れしている。
 その色におおよそ余裕というものは見られない。

「――ざまあみろ」

 切羽詰まった、下手くそな息継ぎの合間にいつか心の中で吐き出した悪態を投げつけた。
 目の前にある馬鹿みたいな顔を、きっと遠い未来でも思い出せると思った自分が一番馬鹿みたいだった。

―――――――

行為に持ち込むまでがスマートになってきた漣が腹立つタケル

​20220804

 

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​ばかになれ

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